ポントルモの生涯と作品

ポントルモという画家をご存知だろうか。もしご存知でないなら、あなたは今回途轍もない幸運に恵まれたことになる。ステキな画家なのである。今回はまず、その生涯を紹介するので、機会があったら是非作品もご覧いただきたい。

孤独な少年

ポントルモは1494年、イタリアのトスカーナで生まれた。ミケランジェロやラファエロなど、ルネサンスの巨人たちの次の世代というイメージが強いのだが、意外にも15世紀の生まれなのだ。本名はヤコボ・カルッチョという。この時代、画家は愛称で呼ばれることが多かった。ダ・ビンチと同様、彼も生まれた村にちなんでポントルモと呼ばれたのである。父、母、祖父と次々に肉親を亡くし、12歳で天涯孤独の身となる。おかげでポントルモは生涯を通じて死の恐怖に悩まされるようになる。

早熟な青年として

少年ポントルモは靴職人の見習いからやがて画家の工房で働くようになる。あのダ・ヴィンチやピエロ・ディ・コジモの工房にいたこともあったという。18歳であのアンドレア・デル・サルトの弟子となる。アンドレア・デル・サルトは漱石の「吾輩は猫である」に登場するので聞いたことのある方もおられるであろう。的確なデッサンと堅牢な画面構成をする画家である。1514年、ローマ法王レオ10世のために描いた絵をあのミケランジェロに誉められる。ミケランジェロは当時、システィナ礼拝堂の天井画を完成させたばかり・・・「神のごとき」と人々から絶賛されていた人なのである。そのミケランジェロから誉められたのだから、彼の腕前は折り紙付きとなったわけだ。当然、師匠のデル・サルトは面白くない。ポントルモはデル・サルトの工房を去ることになった。

マニエリスム開眼

1523年、フィレンツェにペストが流行。ポントルモはこれを避けるため、フィレンツェ南のガッルッツォというところにある修道院に引きこもる。フィレンツェの喧騒を離れ、孤独と静寂に向き合う中で、彼はマニエリスムに開眼したといわれる。マニエリスムとはマニエラ(様式、手法)を語源とするもので、まさに彼はガッルッツォの修道院で自らの独自性に目覚めたわけだ。

人間嫌い

さて、2年に及ぶ避難生活の後、フィレンツェに戻ったポントルモは「カッポーニ礼拝堂」の制作に着手。これは彼の代表作となる。そののちも、教皇クレメンス7世からも依頼を受けるほど、画家としては大成したといって良いのだが、それとともに性格はどんどん偏屈になっていったようだ。カッポーニ礼拝堂制作中には、現場に囲いをしてパトロンにすら途中経過を見せなかったという。

また、彼のスタジオは2階にあるのだが、2階へははしごを使って行くようになっていて、彼は2階へ上がるとその梯子を引き上げて他人が入って来れないようにしていたという。

晩年には体調を崩していたようだ。自身の健康管理のために食べたものを記録した「ポントルモの日記」という不思議な手稿が残っている。

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