モローについて知りたい

19世紀末、象徴派の巨人ギュスターヴ・モローについて知りたいあなたへ。モローをめぐる物語を紹介しよう。

じつは印象派よりも先輩

ギュスターヴ・モローは1826年、パリの裕福な家庭に生まれた。モローは世紀末の画家のイメージが強く、印象派よりも後に生まれたように考えられがちだが、「印象派の父」マネが1832年生まれだから、じつは先輩にあたる。ちなみに同年代だとラファエル前派のロセッティが1828年生まれである。

父は建築家、母はピアノの名手であり、彼は成人するまでに豊かな教養を身に着け、大学入学資格であるバカロレアも取得している。これは当時の画家としては珍しかったのだ。

ローマ賞に2度落選

20歳でエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学。あのアングルの弟子であるシャセリオーという画家に傾倒し、近所に越して画業に励むようになる。印象派の画家たちよりもよほど正統派のように思われるのだが、ローマ賞には2度落選。ついには自費で留学することになる。

だが、自費でも留学しただけのことはあった。当地で見た古代ローマの遺産やミケランジェロやラファエロは彼の画風に決定的な影響を及ぼしたのだ。

愛国者

1870年、フランスは当時プロイセンといったドイツと戦争をして敗北している。パリは包囲され、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ領となった。モローといえば、当時流行りだった写実主義にも印象主義にも背を向け、独自の道を行っていた人だから、当然反戦派のように思われるが、実際は44歳という高齢にもかかわらず国民防衛軍に身を投じている。

独身主義者か

モローは生涯結婚することはなかった。母ポーリーヌが死ぬまで一緒に暮らした。彼は独身主義者かと思われたが、じつは33歳の時に知り合ったアレクサンドリーヌという女性と30年以上も愛人関係をつづけた。

素晴らしい弟子たち

遅咲きであったともとらえられる彼は、62歳でアカデミーの会員に、66歳でエコール・デ・ボザールの教授となる。彼の指導方針は。自由放任であったらしいが、彼の門下からはマティス、マルケ、ルオーといった素晴らしい才能が輩出されることとなった。ちなみにルオーはモロー美術館がオープンしたときに初代の館長を務めている。

ユピテルとセメレ

そのモロー美術館の白眉がこれである。1895年、モロー最晩年の作である。「これからの長い時間を世捨て人として生きていく」と語った30代の日から30余年を経てたどり着いたモローの到達点である。

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