「風の花嫁」の画家―ココシュカ

スイスのバーゼル美術館にある「風の花嫁」をご存じだろうか。深い青緑の地に白いブラッシで浮かび上がる一組の男女・・・なんとも印象的なこの絵を描いた画家はココシュカという。クリムトやシーレと同じく、19世紀末から20世紀初頭に活躍したステキなオーストリア人である。今回はオスカー・ココシュカについて語ろう。

オーストリアというところ

オスカー・ココシュカは1886年、ウィーン近郊のベヒラルンというところで生まれた。シーレよりも4歳年上、ピカソよりも5歳年下である。ご存知の方もおられるだろうが、オーストリアはドイツ語圏である。ピカソは長じてパリに出たが、ココシュカはウィーンに出、そしてベルリンに出ていく。父親は金細工師・・・クリムト同じである。ただ、クリムトのスマートなエロティシズムと違って、ココシュカの荒々しい、性の情念を迸らせたような表現はウィーンの人々には受け入れられなかった。彼の表現を受け入れたのはベルリンであった。

表現主義

当時ベルリンではヴァルト・ヴァルデンという美術評論家が「表現主義」という美術運動を進めていた。「表現主義」とはよく耳にする言葉だが、要は強烈な色彩、単純化した形を用いる絵画様式ととらえて良いだろう。文化的にはウィーンよりもベルリンの方が「トンガって」いたのであろう。ココシュカの画風はベルリンの空気にマッチしたようだ。ココシュカはヴァルデンの片腕として瞬く間に表現主義運動の旗手となった。24歳の時のことである。

アルマ

26歳の時、あのグスタフ・マーラーの未亡人アルマに出会い、激しい恋に落ちる。このアルマという人はクリムトとも関係があったといわれ、なかなか魅力的な人だったようだ。ダリの妻ガラといい、美術史には時折、こうした画家を翻弄するミューズが現れる。結局、アルマは建築家ヴァルター・グロピウスと結婚してしまう。ヴァルター・グロピウスはあのバウハウスを創設した人である。「風の花嫁」はこうした時期に描かれた。はじめは燃えるような赤が使われていたというが、アルマとの恋が破局を迎えるに及んで現在の色味になったという・・・傷心のココシュカは志願して第一次世界大戦に従軍し、心も体も病んでしまう。

後半生

戦後はドレスデンで教鞭をとった後、7年に渡ってヨーロッパを放浪、数々の風景画をものす。じつはこの風景画がじつに良い。ココシュカと言えば前半生の「風の花嫁」で語られがちだが、後半生の作品も素晴らしいのだ。48歳の時、プラハでオルダ・バルコフスカと出会い結婚。ようやく落ち着いた生活が始まるかと思われたが、折悪しくドイツではナチスが政権を取り、前衛芸術を「退廃芸術」だとして血祭りにあげ始めた。ココシュカの作品もなんと400点が没収されてしまい、彼はイギリスに亡命した。

戦後はザルツブルグに「ものを見るための学校」を設立。自らも教壇に立った。晩年はスイスに移り住み、93歳まで生きた。

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