クリムト鑑賞の方法

世紀末―と言っても前世紀末と言った方が良いだろうか・・・1800年代の終わり、ウィーンにいたステキな画家、グスタフ・クリムトの鑑賞方法をお伝えしよう。

貧しい金細工師の息子

クリムトは1862年、ウィーン郊外にあるバウムガルテンというところに生まれた。バウムとは「木」、ガルテンは「庭」であるから、緑の豊かなところだったのだろう。父親はボヘミア出身の貧しい金細工師であった。ボヘミアとは現在のチェコの一部で、当時のオーストリア=ハンガリー帝国においては、ドイツ民族の支配を受け、どちらかというと屈辱的な立場に置かれていた。金細工師というのも象徴的である。後々、クリムトの作品に登場する「金」の芽はすでにここにある。

芸術家カンパニー

7人兄弟の長男であったグスタフは奨学金を得てウィーン工芸美術学校に入学し、油彩やモザイク、フレスコなどを学んだ。貧しい家庭に育った彼は少しでも早くお金を稼ぐ必要があった。卒業後の1883年、弟のエルンスト、友人のフランツ・フォン・マッチュとともに共同アトリエを構え、「芸術家カンパニー」というものを作って公共事業の装飾を請け負うようになる。この辺は現代的だが、クリムトとしては必要に応じて考え出したことなのだろう。ブルク劇場の「階段の間」やウィーン美術史美術館の壁画装飾などを手掛ける。

分離派

クリムトの絵画は分離派―ゼツェッションとの関係で語られることが多い。当時、ウィーンで主流だったクンストラーハウスという団体がとても保守的だったため、若い芸術家たちがそれらから離れて起こした運動であるため、こう呼ばれる。クリムトはその初代会長なのである。分離派は機関誌を発行し、独自の展示スペースも持つことになった。この展示スペースを作るにあたって経済的に援助を行ったのが誰あろうルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの父、カール・ヴィトゲンシュタインである。ちなみにクリムトはルードヴィッヒの姉、マルガレーテの肖像を描いている。ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにある。

分離派の設立は1897年。クリムトは1905年に脱退するまでここで精力的に作品を発表する。

アルマとエミーリエ

うらやましいことにクリムトには二人の愛する女性がいた。一人はアルマ・シントラ―。後にグスタフ・マーラーの妻となる人だが、クルムとよりも17歳も年下。妖しい魅力の持ち主だったらしい。もう一人はエミーリエ・フレーゲ。弟エルンストの妻の妹で、裕福な家庭に育ち、会社経営もする理知的で自立した女性だったらしい。この二人の女性との関わりを通してクリムトは独自の世界を作り出していく。

最後

クリムトは1918年、脳卒中と肺炎で死去したとされているが、資料によっては梅毒だったという話もある。いずれにせよ55歳という若さでの死であった。

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