ジェリコー鑑賞の方法―知るともっと面白い

ルーブル美術館の白眉「メデューズ号のいかだ」の作者にしてロマン派の旗手、ジェリコーの作品を鑑賞するにあたって、知るともっと面白いいくつかのことをお伝えしよう。

恵まれた少年時代

ジェリコー、ジェリコーというが、ジェリコーにもれっきとした名前がある。ジャン・ルイ・アンドレ・テオドール・ジェリコーという。1791年、フランス北部、ルーアンの生まれである。父は弁護士で母は検事の娘。つまり食うに困らぬインテリの家庭に生まれたのだ。幼いころから画才に恵まれていたようで、19歳でピエール・ゲランという人の画塾に入り、21歳でサロンに出品した「襲撃する近衛竜騎兵士官」が金賞を獲得した。そのままローマ賞をとってイタリア留学か・・・と思いきや、そうは問屋が卸さなかった。だが裕福な家の息子である彼は私費でイタリアへ留学する。

アレクサンドリーヌ

恵まれていたのは画才だけではなかったようで、同じく19歳の頃に母方の叔父の妻、つまり血はつながってはいないものの、叔母との関係を始める。ジェリコーが25歳頃の肖像が残されているが、じつに甘いマスクのイケメンである。19歳の頃がどんなだったかは想像に難くない。一方、叔母アレクサンドリーヌは当時25歳。すでに53歳だった叔父に見初められて結婚したという。美しかったのであろう・・・二人の関係は断続的に続き、ついにジェリコー27歳の時にアレクサンドリーヌはジェリコーの子を身ごもってしまう。周囲には随分と責められたようで、子供は里子に出され、アレクサンドリーヌは僻地に遠ざけられてしまう。

メデューズ号のいかだ

アレクサンドリーヌとの関係が破局を迎えたのは8月のことであったが、11月になるとジェリコーは「メデューズ号のいかだ」の制作を始める。ふたつの間になにがしかの因果関係はあるであろう。自分の青年時代を思い起こしてほしい・・・嘘や見栄、虚飾に塗り固められた世界に叫びだしたくなったことが一度や二度はあったはずである。

ジェリコーの制作ぶりは鬼気迫るものがあったようだ。彼は頭髪を剃り落とし、しばらくは人に会えない状況を作り出した。そして、死体を観察するため、近くの病院から解剖された手足の断片をもらってきてアトリエに置いておいたという。

ただ、メデューズ号のいかだを改めて子細に眺めてみると、腐乱した肢体などどこにもなく、人体はミケランジェロばりの筋骨隆々たるもので、むしろ立派だといえる。この絵に関しては二言目には「現実の」とか「赤裸々な」という言葉が使わるが、ジェリコーも最初はそのようなものを目指したのかもしれないが、最後には「絵画性」、つまり画面の中での視覚的な物語の方にシフトしていったように見える。

イギリス

「メデューズ号のいかだ」はサロンに出品され、大きな反響を呼び起こしたが、結局受け入れられなかった。失意のジェリコーはイギリスに渡り、「メデューズ号のいかだ」を各地で展示しては入場料を得た。これがかなりの成功を収めたようで、彼は予想外の大金を手に入れることになる。

そしてイギリスで得たのは大金だけではなく、産業革命が進む中で社会から置き去りにされていく人たちを彼は見出すことになる。彼はフランスに帰国後、精神病院を訪れて「偏執狂シリーズ」を描くことになる。

その死

だが、死は唐突に訪れる。ジェリコーは幼いころから乗馬を好んでいたが、32歳の年の暮れ、落馬事故を起こしてしまう。その傷から感染症を起こし、年をまたいだ1月末に亡くなってしまう。最後の言葉がまた奮っている。それは「まだ何もしていない」というものであった。

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