ダヴィッド鑑賞の方法

 

「ナポレオンの戴冠式」で有名なダヴィッドの絵を鑑賞する方法についてお伝えしよう。まずは、ダヴィッドとはどんな人だったのか。それをお伝えしよう。

その生涯

じつはダヴィッドは絵と同じくらい「人」も面白い。

ジャック・ルイ・ダヴィッドは1748年、パリに生まれた。父は小間物商を営んでいたが、ジャックが9歳の時、なんと決闘で死んでしまう。われわれは「ベルばら」やドストエフスキーの小説で「決闘」を知っているのだが、本当にあったのだ。ジャックは建築家の叔父に預けられ、やがて画家を志すようになる。

ローマ賞

当時、フランスで画家を志すほとんどの者はローマ賞を目指した。絶対王政の頃、フランスをヨーロッパ随一の芸術国家にすべくアカデミーというものが作られ、そのアカデミーが優秀な若者をローマに留学させるべく設けたのがローマ賞である。ちなみにアカデミーは「サロン」というものも主宰していて、ここに入選するかどうかということは、当時のフランスで画家として生活していくうえでは重要なことであった。「ナポレオンの戴冠式」をルーブルで見た人たちには信じられないと思うが、だがダヴィッドはこのローマ賞に4度も落選した。今なら東京芸大に4度落ちたようなものであろうか。

新古典主義

でも最終的には受賞して26歳でイタリアへ旅立ち、5年間滞在する。当時、ポンペイの遺跡が発掘されたこともあって古代ギリシア・ローマへの関心が高まっていた。ダヴィッドはこうした古代遺跡を見て回り、また、ルネサンス期の偉大な先人たちーミケランジェロやラファエロに出会い「新古典主義」という様式を確立していく。

フランスに帰国した彼は、ローマ賞の時とは打って変わってもてはやされ、3年後にはアカデミーの正会員に選ばれた。「ホラティウス兄弟の誓い」などが大喝采を浴び、本来なら彼の画家人生はこのあたりで「めでたしめでたし」と締めくくられるところである。だが・・・

革命

1789年、フランス革命が勃発。ダヴィッドは革命の渦に身を投じる。芸術家は政治と距離を置いているようなイメージがあるかもしれないが、ときどきこういう人が出てくる。彼は「テニスコートの誓い」を描き、国民公会の議員になり、やがてルイ16世の処刑に賛成票を投じるまでになる。ところが、政治というのは中心に近づけば近づくほど危険になっていくものだ。ロベスピエールが失脚すると、彼も捉えられ、ギロチン台送りを待つ身となった。

ナポレオン

間一髪で釈放され、政治はこりごりと思いきや、彼は今度はナポレオンに心酔してしまう。まあ、でもナポレオンという人には相当のオーラがあったようで、後世の人間があれこれ言えることではないが・・・彼はナポレオンの首席画家となって10年を過ごす。あの「ナポレオンの戴冠式」はこの時期に生まれたのだ。だが、時代はまたもや彼を振り回す。1814年、ナポレオンは失脚。ルイ18世による王政復古がなされると、ダヴィッドはブリュッセルに亡命し、9年後に客死する。

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