真贋からの解放―自由に絵を見る方法

本ブログで斉白石を扱ったページについて、訪れた方から次のような質問があった。「斉白石は贋作が多いようですが、真贋の見分け方はありますか」

結論から言おう。我が独和珈琲絵画館では真贋は問題にしない。それよりも、その絵から何か得るものがあるのか、その絵に何か素晴らしいものが見出せるのかの方がはるかに重要である。そのあたりを山岡鉄舟、そしてメーヘレンの話をもとに述べてみたい。

山岡鉄舟

明治の剣豪といわれた山岡鉄舟はスゴイ人であった。なにせ、江戸までわずかのところに迫った討幕軍に、江戸無血開城のお膳立てをすべく、なんと一人で乗り込んでいったのだ。当時の討幕軍の殺気立ちようからすれば、鉄舟は首になって帰されても不思議はなかったのだ。だが、鉄舟は動じることなく無事、勝―西郷会談の約束を取り付け、江戸は火の海になることから逃れ得た。鉄舟こそは真の意味で肚の座った男であったのだろう。

さて、その鉄舟にこんな逸話がある。鉄舟は書の達人でもあったので彼の書を求める人は多く、ゆえに高額の値が付き、果ては贋作までが出回るようになる・・・あるとき彼は露店で自身の書が売られているのを見る。それは紛うことなき贋作であったが、彼はそれを買い求めて自宅へ持って帰る。一部始終を見ていた人が不思議に思って彼にそれを問いただしたところ、鉄舟は次のように言ったという。

「なに、あの書はじつによく出来ておったので、何か学べるのではないかと思ってな」

素晴らしい!自由というのはこういうことをいうのだろう。真作か贋作かなどということは、良いか悪いか、美しいか醜いか、面白いかつまらないかということに比べればどうでもいいことなのだ。

メーヘレン

オランダの有名な贋作者にハン・ファン・メーヘレンという人がいた。彼は自分が描いた絵をフェルメールの未だ知られざる真作だとして、ナチスの高官に売りつけていた。かれはのちに告訴されたが、本当にフェルメールのように描けるのかどうか半信半疑な人たちの前で実際にフェルメールの贋作を描いて見せ、自身の腕を証明したという。あのサルバドール・ダリが「フェルメールが描いているところを見られるならば、この腕をくれてやってもいい」とまで言った、あのフェルメールをである。

彼は何枚もの「フェルメール」作品を描いたが、ついに誰もそれを贋作だと見破ることはできなかった。ナチスの高官にオランダ人の宝であるフェルメールを売ってしまったことを追及されるに及んで、仕方なくあれは自分が描いたのだとばらしたのである。

さあ、あなたも考えてみよう。だれもが贋作だと気付かない作品を、果たして贋作と呼ぶべきだろうか。ましてやその作品に価値を見出し、高額の値を付ける人がいるのにである。

ちなみにメーヘレンの作品はいくつかインターネット上で見ることができる。わたしはそれらがすべて贋作だと分かって見ているのだが、真作に比べると生硬さ、ぎこちなさは否めないものもあれば、フェルメール本人を超えているのではないかと思えるものもあった。

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