もっと知りたいーブリューゲルについて

ネーデルランドの画家ピーター・ブリューゲルについて、もっと知りたいあなたへ・・・その生涯についてお伝えしよう。

アントワープ

じつは生まれについてはあまりよく知られていない。

アントワープの画家組合である「聖ルカ組合」に親方登録したのが1551年であることははっきりしている。それで、当時親方になっていた人たちの平均年齢を考えて、かれの出生年は1525年~1530年頃であるとされている。その時の記録から、生地はネーデルランドの北ブレダであるとされる。

画業を志しアントワープに移ってきたのだろう。

イタリア留学

親方となった後、イタリアへ留学している。ただ、当時多くのネーデルランドの画家はイタリアへ修行に出向いていたらしい。あのデューラーやルーベンスもイタリアへ留学している。彼の画はたしかにボスの絵などと比べると、「バベルの塔」といい「農民の結婚式」といい、遠近法や人物配置にイタリアの匂いを感じてしまう。イタリアからの帰り道にアルプスを越え、雄大な自然に接して感銘を受けたらしい。

どうやって世に出たか

彼の画業のはじめは版画であった。版画出版業者コックと組んで制作した「大風景画シリーズ」は雄大な自然描写が人気を博し、「大きな魚は小さな魚を食う」という風刺画は怪奇的なイメージが「ボスの再来」といわれ、版画集の売れ行きはすこぶるよかったという。

ブリュッセル

ブリューゲルは38歳にして結婚する。相手はマイケンといい、彼が修行した親方の娘であった。年の差は19歳。マイケンが幼いころ、ピーターはよく彼女を肩車してあげていたという。

この結婚を機にブリューゲルはブリュッセルへ転居する。ブリュッセルでの暮らしは快適だったようで、彼の代表作のほとんどはこの時期に描かれている。

だが、幸福な時期はわずか5年ほどで終わりを迎える。1569年、ブリューゲルは40代の若さで亡くなってしまう。

二人の優秀な息子

彼は44歳という若さで死んだ。残された妻マイケンはまだ20代の若さであったが、二人の間には二人の息子があった。一人はピーター、もう一人はヤンという。ピーターは「地獄のブリューゲル」といわれ、父親と同じ名前であることから、よく「ピーター・ブリューゲル(子)」などと表記される。ヤンは「花のブリューゲル」といわれ、なんとあのルーベンスと交流があり、彼と共同制作もしている。

ブリューゲルは息子には恵まれていたといってよい。ちなみに妻マイケンも早世したため、子供たちに絵を教えたのは彼らの祖母だったという。

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