ボスについて知りたい

ヒエロニムス・ボスについて知りたいあなたに・・・北方ルネサンスのみならず、全美術史を通じても異色の画家と思われるこの人はいったいどんな人なのか。なぜこのような絵を描いたのか。諸説はあるが、わたしの鑑賞体験や実際絵を描いたりするなかで、導き出した答えをお伝えしよう。

どんな人だったのか

生年については不明である。おそらく1450年頃ではないかといわれている。つまり、ブリュージュでヤン・ファン・アイクが亡くなってからおよそ10年後のことである。ただ、ブリュージュと違ってボッスの生まれたス・ヘルトーヘンボスは地方都市であり、美術史的にはいまだ後期ゴシックの香りが濃厚に残っていたようである。

祖父から3代続いた画家の家に生まれた。当時は親の家業を継ぐのが当たり前の時代であるからこれは驚くには値しないであろう。ただ、彼は資産家の娘アレイト・ホヤルツ・ファン・デル・メールフェネを妻に迎え、町の名士の仲間入りを果たす。そして「聖母マリア兄弟会」という有力な信仰団体への入会も許される。経済的に安定し、地位も名誉もある人だったのだ。

画家としても成功をおさめ、50歳を過ぎたころにブルゴーニュ公国の君主、フィリップ美男公から「最後の審判」の制作依頼を受けるほどになる。

60歳を過ぎて最高傑作といわれる「快楽の園」に着手。1515年、完成を見たあと1516年に死去した。マルチン・ルターによる宗教改革が始まる前年のことであった。

なぜこのような絵を描いたのか

画だけから考えると、さぞかし数奇な人生を送ったのではないかと考えがちであるが、上に見るように、ボスの人生はこれといって語ることもない、じつに恵まれた、平々凡々たるものであった

では、なぜあのような絵を描いたのか。一説には千年紀信仰というものがあり、当時の人々は終末の恐怖に絶えずおびえていたという。また、終末が近いことから、聖俗一緒になって人々は刹那的な快楽を追い求めた。ボスの絵は当時の世相を表しているのだ・・・という。だがはたしてそうか。

わたしはボスの「質」によるところが大きいように思う。わたしは美術研究所や美術大学、画廊や美術館で「絵を描く人」を多く見てきたが、どの人にも得意、不得意ということとは関係なく、「どうしてもこうなってしまう」といった「質」があった。

漫画で考えると分かりやすいだろう。手塚治虫に「おろち」は描けないし、梅津かずおに「リボンの騎士」は描けないのだ。

画業を生業とする家に生まれたことで、ボスは早い段階で自分の「質」を意識し始めるようになったのではないか。それを、注文主の反応を見ながら小出しにしていくうちに「これはウケる」と思い定めたのではないだろうか。わたしはそれを「石の切除手術」が描かれたころ、つまり、地位も名誉も得た30代半ば頃であろうと推測するが、皆さんはどう思われるだろうか

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