知るともっと面白い-若冲の物語

東京都美術館で始まる「奇想の系譜」展の目玉は、やはり若冲であろう。そこで若冲の作品を見る前に、若冲を巡る物語についてお話しておこう。知るともっと面白くなるはずである。

枡屋

そもそも若冲の本名は「枡屋源左衛門」。京都の錦小路という商店街にある青物問屋の若旦那なのである。「枡屋」は店の屋号で、店主は代々「源左衛門」を名乗ることになっていた。つまりは大店だったわけで、若冲は経済的には大変恵まれた環境にいたというべきだろう。

展覧会に行ったら、ぜひ彼の作品の色に注目して欲しい。顔料といい、墨といい、紙といい、当時の最高級のものを使っているため、発色はすばらしく、同時代のほかの作家から飛びぬけている。

相国寺

さて、枡屋の若旦那が生まれたのは1716年。江戸時代のちょうど真ん中といってよい時代で、この頃の京都には面白いものがたくさん入ってきていた。そのうちのひとつが中国の禅宗の一派である黄檗宗で、黄檗宗の僧侶は禅の教えとともに紙や絵画などの中国文化も持ってきたのだ。そうした黄檗宗の僧侶を受け入れていた相国寺の住職が大典顕常というひとで、「若冲」という名前はこの人から授かったものだ。

意味は空虚ということ。「満ち足りているものは中が空虚に見えるが、其の働きは尽きることがない」(大盈は沖しきが若きも、其の用は窮まらず)という老子の文章からとっている。

   鶏

若冲はなぜ鶏を描いたのか・・・彼は生きているうちに自分の墓を相国寺に建て、墓碑を先の大典顕常に書いてもらっている。それで、彼の絵画修業の様子が今に伝わっている。

・・・当時の画家の通例として彼もまた、はじめは狩野派の門をたたいた。当時の絵画教育は臨本といって、手本を集めた冊子を見て忠実に写すものであった。彼はすぐにこれに飽き足らなくなった。そこで、狩野派がお手本とする宋元画を直に写すことにする。すなわち臨画である。当時、京都にあった宋元画をつてを頼って見せてもらい、忠実に写す。その数、じつに1000に及んだという。だが、1000点に及ぶ臨画を終えて彼は考えたという。

・・・いくら宋元の画がうまく写せるようになったところで、所詮、宋元の画を超えることはできないであろう。宋元の画を超えるには自分の目で見て描かなければだめだ。

・・・深山幽谷の風景、虎や鸚鵡はなかなか見ることができない。自分がいつでも見ることができるものを描くべきだ。それで鶏が選ばれ、数十羽が屋敷の庭に放し飼いにされたという。若冲の鶏はこうして生まれたのだ。

売茶翁

若冲の同時代人に「売茶翁」という奇人がいる。売茶翁は黄檗宗の僧侶で、その博識は抜きんでていたのだが、老年に至っては町で煎茶を打って暮らした。若冲は彼に憧れ、自分自身も老齢に至って、自らの絵を米一斗と交換し、もって米斗翁と号した。彼の絵に「買ってもらわなきゃ」とか「注文してもらわなきゃ」といったギトギト感が全く感じられないのは、あるいはこのあたりに理由があるのかも知れない。

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