画家レンブラントの生涯

 オランダの市井に生きる一個人としてのレンブラントの生涯は、前半生に一気に頂点まで上り詰めたかと思うと、後半はだらだらとひたすら落ちて行くのみである。だが、画家としてのレンブラントはその生涯が終わりに近づくほどに輝きと深みを増していった。

前途洋々の前半生

1606年というから、日本では関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、豊臣方がまだ巻き返しを狙っていた頃、遠くユーラシア大陸の西側にあるオランダのライデンでレンブラントは生まれた。父親は製粉業者であったが、息子に高い学歴を付けさせるべく、ラテン語学校に入れた。息子も父の期待に背かず14歳でライデン大学に入るのだが、どういうわけか息子は法律よりも絵画の方に興味を抱き、ついにアムステルダムで絵画修業を開始。25歳で画商ウェイレンブルフと契約。肖像画を次々と手がけ、26歳の時に手がけた「チュルプ博士の解剖学抗議」で一躍人気画家となった。

28歳の時、画商ウェイレンブルフの親戚で6歳年下のサスキアと結婚。サスキアは教養豊かな上流階級の娘で結婚にあたって4万ギルダーもの大金を持参してきていた。当時、牛4頭が500ギルダーで買えたというから、今の日本で一般和牛が70万円としてざっと2500万円というところである。

続く8年間がレンブラントの絶頂期である。仕事の注文はひっきりなしにやってきた。彼は大工房を構え、大邸宅を購入。そして代表作「夜警」を完成させる。

不幸な後半生

サスキアという女性はいわゆる「あげまん」というタイプなのであろう。サスキアと結婚してレンブラントの才能も運命も一気に花開くわけだが、サスキアが亡くなってからのレンブラントは良いところなしである。

サスキアの死後、幼子を抱えたレンブラントはヘートルテという乳母を雇い入れ、やがて良い仲になってしまう・・・よくある話だ。だがこのヘートルテ、やがてレンブラントに結婚を迫り、彼がそれを拒むと婚約不履行で彼を訴える。彼は彼女に慰謝料と年金を支払うことになる。

加えて、全盛期に多額の収入のあった彼には浪費癖が身についてしまっていた。高価な美術品を収集する一方で、画家としての彼の人気は下り坂になっていき、50歳にしてついに破産宣告を受ける。

54歳で貧民窟ローゼンフラフトに移り、以後63歳まで浮かぶ瀬はなかった。

だが・・・この後半生は美術にとっては幸いだったとみるべきであろう。ここにもう一人、美術にとっての「あげまん」ヘンドリッキェが登場する。彼女が家政婦として雇われたのは1649年。彼の作品が真に輝きと深みを増すのはこれ以後のことである。「窓辺のヘンドリッキェ」「ヨセフの息子を祝福するヤコブ」「ユダヤの花嫁」「クラウディウス・キウィリスの謀議」そしておびただしい数の自画像・・・どれもそんじょそこらのというか、当時の他のオランダの画家では到達できなかった境地であろう。

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