もっと知りたい尾形光琳―なにもの?

 

MOA美術館の「紅白梅図屏風」や根津美術館の「燕子花図屏風」を見て、尾形光琳についてもっと知りたいと思ったあなたに・・・尾形光琳について、物語をしていこう。

いつの人?

光琳が生まれたのは1658年。徳川幕府では、初代家康、息子の秀忠、3代目家光と続き、このころには4代目の家綱が将軍職に就いていた。大坂夏の陣が終わったのが1615年だから、戦後40年・・・最近のわたしたちの感覚でいえば、先の戦争が終わって40年といえば1985年。そろそろバブル期に入ろうかという頃である。江戸の世も安定期に入り、上方を中心に元禄文化が花開こうとしていた。

ちなみに、江戸期はかなり時代が下るまで文化の中心は上方、つまり京都・大阪であった。光琳は京都の人である。

どんな人?

「センス」という言葉をよく聞くが、こと美術、それも日本美術において真に「センスのある人」は光琳をおいてほかにはない。「センス」とは光琳のためにあるような言葉だ。

京都の雁金屋という大店の次男坊として光琳は生まれたのだが、雁金屋は高級呉服店であり、皇室にも出入りを許されていたという。光琳は当時の日本ではトップクラスの華麗な意匠を毎日目にして育ったのだ。

加えて、雁金屋は本阿弥光悦と姻戚関係にあった。本阿弥光悦といえば、江戸初期に刀の鑑定をしていた人だが、書や漆芸、陶芸にもたんのうで、俵屋宗達と組んで現在は国宝・重文になっている作品を数多く手がけた人である。そんな光悦の作品や制作においての空気・感覚というものも光琳は吸収していったのだ。

どんな生涯を送ったか?

雁金屋は大店なので、当然大金持ちである。似たような境遇のひとに伊藤若冲がいる。彼も青物問屋の惣領息子だ。ただ、若冲が茶屋遊びなどには関心がなかったのに対し、光琳は30歳で父親の莫大な遺産を引き継ぐと、連日遊びまくったようだ。

歌舞伎の「幸助餅」を見ると、茶屋遊びなどをする大店の若旦那は、ご祝儀に小判一枚を与えている。現在の価値で10万円ほどである。これはご祝儀なのだから、一晩で散じる金子はいったいいくらになろうか。10倍では足りないであろうから100倍として1000万円ということになる。1年間で36億5千万円。10年もすれば破産してしまうであろう。

そのとおり、光琳は40歳で破産した。仕方がないから絵でも描くかというのが絵師光琳の始まりであったのだ。

1701年には法橋という、絵師としては最高の地位を与えられるが、経済的には苦しく、江戸に出稼ぎに行ったりしていた。50歳を過ぎて京都に戻り、現在「光琳屋敷」として知られるアトリエ付きの住居を建て、代表作「紅白梅図屏風」を描いた。復元された光琳屋敷が熱海にあるので、ぜひ訪れてみてほしい。

1716年、59歳で没。元禄を体現するような生涯だったといえるだろう。

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