マックス・エルンストについて考える


今回はマックス・エルンストについて考えることにする。

マックス・エルンストといえば、私には苦い思い出がある。1991年7月のこと。ドイツはケルンに滞在していた私はカール・ドゥイスブルグ・ツェントルムというところでドイツ語の勉強をしていた。勉強の中にプロジェクト・アルバイトというのがあって、生徒は各々、好きなこと、興味のあることについて調べることになっていた。

わたしは、ケルンのアーティストやギャラリーを訪れるというプロジェクトをやることになっていて、講師が「自分は市内に芸術家の知り合いがいるから連れて行ってあげよう」と言ってくれた。ところが、待てど暮らせど講師からの連絡はない。しびれを切らして電話をしてみると、「いまルードヴィッヒ美術館でやっている『エルンスト』展を一緒に見に行こうじゃないか」とのことであった。

約束の時間、待ち合わせ場所である美術館の入り口でわたしは一時間くらいも待ったであろうか。ついに彼は現れなかった・・・

もちろん、これはエルンストのことではない。ここでいいたいのは、日本人が普通抱いている謹厳実直な「ドイツ人」像というものがあるが、じっさいのドイツ人には、それとは異なったいくつかのタイプがあるということである。エルンストもそのタイプのうちの一人だ。

インテリ、エルンスト

さて、そのエルンストだが、1891年、ケルン近郊のブリュールに生まれる。教師の子だった彼は、長じてボン大学に入り、哲学、心理学、美術史を修める。インテリなのである。だいたい、ドイツの大学生はよく勉強する。ひとつには授業料がただで、学生でいようと思えばいつまででも学生でいられる(Ewiger Student エヴィガーステュデントという)ということもあるのだろうが、わたしがドイツで出会った学生は、大半が修士か博士になるといっていた。

ダダとエルンスト

1914年、第一次世界大戦が勃発。同年代のハイデッガーやヴィトゲンシュタインと同様に、彼も砲兵隊員として徴兵される。エルンスト24歳。ゴッホの絵に感動し、当時最先端のキュヴィスムや表現主義にも触れ、画業に一歩を踏み出したところである。

第一次大戦のヨーロッパ戦線は、最新の軍事兵器が投入され、凄惨な戦いとなった。化学兵器、特に毒ガスが使われた戦場は酸鼻を極めた。毒ガスで死んだ兵士たちの写真が今でも残されているが、皮膚はどす黒く膨れ上がり、口から泡なのか内蔵なのかを吹き出している。

このような戦いに駆り出された者たちが「ダダ」に行きつくのはごく自然な流れである。ダダイズムとは、1916年、スイスの芸術クラブ「キャバレー・ヴォルテール」で行われた芸術的余技が始まりとされるが、ダダの根幹は、破壊であり、破壊される対象はそれまでのあらゆる権威―尊いもの、偉いもの、優れたものである。そうしたものに対する失望と不信の念がモダン(近代)とコンテンポラリー(現代)とをはっきりと分けるものとなっているのだ。

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