現代においてクールベを解釈する

 

現代においてクールベを解釈するのはなかなか難しいことかもしれない。なぜ、彼の絵は物議を醸したのか・・・そこで、あるトピックスに照らしてクールベを浮き上がらせてみよう。

なにものか

その前にクールベがなにものかを述べておく。彼はフランス、スイス国境に近いオルナンというところに1819年、生を受けた。実家は裕福な農家で、父親は村長を務めるほどの人であった。神学校に進み、さらには法律家になるべくパリに出るが、絵画への思いが募り、21歳で画業を開始。苦しい下積みの生活の中、25歳でサロンに初入選するも、文学者たちとの交流などから、徐々に写実的傾向を強めていく・・・32歳の時に発表した「オルナンの埋葬」(1849年 オルセー美術館)が物議を醸し、やがて画壇と対立するようになる。38歳の時には万国博覧会の会場わきで個展を開催、「画家のアトリエ」(1855年 オルセー美術館)を展示する。

国内では冷遇されたが、このころからドイツやベルギーなど海外からの出品依頼が相次ぎ、作品も売れるようになる。

画家として成功したものの、1871年のパリ・コミューンに参加。パリ・コミューンとは、史上初の労働者階級による独裁政権であるが、短期間で鎮圧されてしまい、クールベは、その首謀者として逮捕されてしまう。さらにその2年後にはある爆破事件に関わったたとして追及を受け、スイスへ亡命。そのまま客死する。享年58歳。

浴女たち(1853年 ファーブル美術館)

さて、では彼の作品を見ていこう。わたしが選ぶのは1853年作の「浴女たち」である。

サロンに出品されたとき、あまりの「醜さ」にナポレオン3世がこの絵を鞭で打ち据えたというエピソードが残されている。分からなくはない・・・考えても見てほしい。そもそも「浴女」、つまりは水浴びをするために一糸まとわぬ身となった女性というものに、世の男どもは幻想を抱いているものなのである。それこそ、生唾を飲み込んで窃視する対象なのである。その肌はぴんと張り詰め、水は玉となって弾けるようでなくてはならないのだ。それが・・・この腰回りについた贅肉はどうだ。前から見たらいったい何段腹になっているのであろうか。

「そんなこと言ったってこれが現実だろ」とのクールベの声が聞こえてきそうである。クールベ34歳。いかにも青い。現実は百も承知ながら、それでも夢を見たい人たちで世は溢れかえっているのである。

ちなみに、世界の起源(1866年 オルセー美術館)と題するまさに女性の陰部を描いた作品も存在する。じつは陰部を描くこと自体はそれほど珍しいことではなく、絵を描く人間にはありがちな行為である。美術大学へ行くために私が通っていた美術研究所でも「細密描写」の課題で自分の局部を描いてきた男がいたものだった。その男の言い分も「きれいごと言ったって、本当のものだで」というものだった。

青年的な青さでもって、確信犯的に自分の考えを突き付けていく。ここにクールベが嫌われたでろう理由も存在するし、同時に熱烈な信奉者を生んだ理由も存在するのだ。

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