エル・グレコをみるコツ

エル・グレコを見るコツ―それはふたつのキーワードで語られる。すなわちイコンとピカソである。このふたつを見ていくことでグレコの理解がより深まり、そしてグレコの良さ、すごさが分かるであろう。

エル・グレコ―どんな人?

イコンとピカソを語る前に、まず、グレコについての概要を述べておこう。

ご存知の方もおられると思うが、「エル・グレコ」とはスペイン語とイタリア語が組み合わされた「ギリシア人」の意味である。つまりはあだ名なのである。本名はドメニコス・テオトコプーロスという。地中海に浮かぶクレタ島の出身である。当時、クレタ島はヴェネツィア共和国の支配下にあり、グレコは20代半ばでヴェネツィアに出て、ティツィアーノの門下に入った。その後、ローマから、よりチャンスを求めて30代半ばでスペインのトレドに移る。

スペインでは画家としてまずまずの成功を収めていたようである。彼の代表作「オルガス伯の埋葬」に1200ドゥカが支払われたそうだが、これは現在の価格で1億4400万円である。そのままトレドで生涯を閉じる。享年73歳。

イコン

あまり知られていないのだが、グレコはクレタ島にいたときにはイコンの作家であった。ギリシアは東ローマ帝国にあって、ギリシア正教を信奉する人が多かったから、これは驚くにあたらない。

2012年に日本にやってきた「エル・グレコ展」で彼のイコン作家としての貴重な作品が展示されていた。「聖母を描く聖ルカ」(1563-65年 ベナキ美術館 アテネ)である。22歳から24歳の作品ということになるが、聖ルカや聖母マリアの衣服の部分のハイライトに注目してもらいたい。後年の「無原罪のお宿り」(1607-13年 サン・ニコラス大聖堂)に見られるような極端で乱暴ともいえるようなハイライト部のストロークはなるほど、ここに源流があったわけだ。

ピカソ

1897年、ピカソ若干16歳の年に制作された「科学と慈愛」はマドリードで開催された全国規模の美術展で選外佳作をとり、彼は王立サン・フェルナンド美術アカデミーへと進む。彼はプラド美術館へ足繁く通うのだが、特にエル・グレコの模写に励んでいたことが記録に残っている。

自らの絵画を「破壊の集積」と呼んだ20世紀絵画の巨人が、忘れられた16世紀マニエリスム絵画の模写とは、いささか唐突にも聞こえるが、たとえば「人生」(1903年 クリーヴランド美術館)や「曲芸師の一家」(1905年 ワシントンナショナルギャラリー)を見てみよう。

人物の輪郭に沿ってうねるように走る線・・・肉体の隆起の稜線に思い切って載せられた冷たい、生々しい肌色・・・これらはグレコそのものである。否、300年前のグレコの方がはるかに大胆に、現代的に表現しているとさえいえるであろう。

ピカソを通してみると、グレコの良さが改めてわかるであろう。

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