知るともっと面白いルネサンス

 

 ルネサンスの画家たちの足跡をたどっていくと、日本人としてはいまひとつ分からないいくつかのことにぶつかることがある。今回はイタリアと教皇について語ることにする。

イタリアという国について

 まず、イタリアについて。フィレンツェとかローマとかヴェネツィアとかミラノとか、いろいろな都市が出てきて、みなてんでに活動しているように見えるが、いったい、イタリアという国はどうなっていたのだろう。

 じつは「イタリア」が現在のような形で出来上がったのは1861年。日本でいえば明治維新の頃で、それまでは小さな国や都市が割拠していたのだ。フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、教皇領というふうに・・・

 われわれは日本の戦国時代をイメージすればよいのではないか。日本列島というものはあっても、人々に「日本人」という自覚はなく、それぞれが尾張の人とか、甲斐の人といっていたわけだ。

 さて、その中でもフィレンツェというところは羊毛の集散地であり、毛織物業が盛んとなる。やがては銀行業も発達し、ヨーロッパ各地に80もの支店を持つまでになる。そうなると、富を得た商人たちは「自分のことは自分で決めさせろ」ということになり、フィレンツェは自由都市になり、周辺に所領や、傭兵というかたちで軍隊まで持つようになったわけだ。

 なにもこれはフィレンツェに限ったことではなく、日本でもたとえば堺などは交易で栄えて自由都市となっている。

教皇について

 では、教皇領とは何だろう。文字通り教皇の所領である。今だってローマ教皇は小さいながらもヴァティカン市国という国の首長であるが、それが昔はもっと大きかったのだ。       

そもそもローマ教皇はキリスト教初期にあっては、各地にいる大司教の一人にすぎなかったにだが、ローマはキリストの弟子のペトロが殉教した土地であり、その墓があることなどから、ローマ教皇は次第に力を増し、やがてカトリック信者の最高権威となったわけだ。

ルネサンス期には権威だけではなく、先に述べたように、ローマを含めた広大な所領があったし、免罪符という、ひとの悪行をチャラにするというお札の販売によって莫大な収入があった。

われわれはローマ教皇ユリウス2世がミケランジェロを「足場から突き落とすぞ」などと脅したりするシーンを読んで、「最高の聖職者がそんなことを」と信じられない感じがするのだが、この時代のローマ教皇は自らの国土、人民、富をもつれっきとした王であると考えたほうが良いだろう。

身近にあまり例はないが、たとえば、ダライ・ラマは、ラマ教の最高権威だが、同時に、かつては広大なチベット高原を支配する王でもあったのだ。

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