レオナルド・ダ・ヴィンチを鑑賞するコツ?そんなの、絵をそのまま見ればいいじゃないか。絵の前で理屈や言葉はいらないよーそんな言葉が聞こえてきそうだが、よく考えてみてほしい。あなたはレオナルドの絵のどこが良いと思うのだろうか?
・・・こんなことを問うのも、私自身がはっきりと答えられないからである・・・でも、レオナルドの絵になんとなく惹かれて数十年がたつうちに、最近ようやくこういうことかな・・・と思えてきたのである。
最後の晩餐
ミラノ、ドミニコ会修道院にある「最後の晩餐」はダ・ヴィンチの最高傑作といわれる。にも関わらず、この絵は1498年に描かれた当時の面影を残していない。
「最後の晩餐」は壁に描かれた「壁画」である。当時のイタリアにあって、壁画というものは、壁に塗った漆喰が乾かないうちに、水で溶いた顔料を沁み込ませる、いわゆるフレスコ技法で描くのが主流だった。
これに対してダ・ヴィンチは、顔料を卵黄で練ったテンペラ技法で「最後の晩餐」を描いた。ゆえに絵の具は壁に沁み込まず、完成直後から画面には亀裂が生じ、ダ・ヴィンチの生前にはすでに剥離が始まっていたという。以後、「最後の晩餐」はカビで覆われたり、油彩で加筆されたり、しまいには熱したコテが当てられたりと、散々な目にあってきた。
1999年、修復家ビニン・ブランビッラ氏が最新の光学機器を駆使して壁面を調査、20年の歳月をかけて壁画表面を洗浄した。その結果、ダ・ヴィンチのオリジナルの画面が現れ、世界はその荘厳さに息をのんだ・・・はずだったが?
じつはよく見えないのが良かった
人によって意見は異なるだろうが、わたしには、洗浄のすんだ壁面は、以前のものと比べてかえってくすんだ印象を与えてしまっているような気がした。
今回は、行われた調査・分析をもとに完全にはく離した部分までも再現したCGが制作されたのだが、これもいただけない・・・その画面のなんと安っぽいことか・・・CGがレオナルドの手によるものではないということを差っ引いても、たとえば壁面のタペストリーに花の柄が入っていたりするのには幻滅してしまう。
素直に認めてしまうならば、「最後の晩餐」は修復前の方が良かった。つまり、画面の何割かは剥落して褐色の壁面がむき出しになっているものの、そのむき出しになった壁面が想像力をかき立てるところもあったのだ。「見えなさ」が暗示するところもあったのだ。
ミロのヴィーナスを見るがよい。ヴィーナスの失われた両腕は、様々な形が想像できるが、その「想像できる」ことが良いのであって、「完全な」ミロのヴィーナスが再現されたとしたら、その瞬間に「想像できること」の楽しみは消し飛んでしまうであろう。
レオナルドの絵は見えないものとして見るべし
最後の晩餐以外のレオナルド作品を見てみよう。「モナリザ」「聖アンナと聖母子」「受胎告知」・・・いずれも未完成とみられる部分があり、その未完成ゆえの曖昧さ、良く見えないところが魅力となっている。
一方で「岩窟の聖母」などはどうであろう。安定した三角形構図と相まって、カチカチに完成された画面はどことなく息苦しい。
レオナルド鑑賞のコツ・・・それは見えないところを見えないものとして見ることである。
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