池田満寿夫について考える

 

今回は池田満寿夫について考える。

わたしが大学生の頃、版画科の招待で池田満寿夫が講演会にやってきた。それが彼のスタイルなのか、彼は何かについて語るということはせず、いきなり聞いている学生たちに「何か聞きたいことはないか」と尋ね、それにこたえる形で講演が進んだ・・・

半ばくらいだったと思う。平井君という、わたしと同じコースを取っている学生が手を挙げた。

「あの・・・美術って何の役に立つんでしょうか」

池田は予期していなかった質問に少したじろいだようだった。少し間があって、そして困ったように池田は話し始めた。

「たとえば君たちの周りを見てごらん。たとえばこのコップの形とか、このペンの色であったりとか・・・そうしたところにも美術の成果、影響は表れている。われわれは美術と無縁ではいられないと思うがね。」

平井君は執拗だった・・・

「僕は音楽を聴くんですけど、たとえばロックとかレゲエとか、そういうものは人にものすごく影響を与えると思うんです。それこそ、人の生き方をも変えてしまうような・・・僕、美術にはそういう力はないと思うんですけど・・・どうなんですか」

「・・・」

池田は答えられなかった。この講演を聞いていた多くのものは「平井君、また変なことを」と思ったに違いないのだが、わたしも含め、何人かの人間は「池田は逃げた」と思ったはずである。

池田はどうこたえるべきだったのか

池田は旧満州生まれ。帰国後は長野で高校まで過ごし、芸大を目指して上京する。ところが芸大には三度にわたって受験を失敗し、彼は結局アカデミックな教育は受けていない。酒場の似顔絵描きから始め、やがて版画と出会った・・・

彼の50年代から60年代前半までの作品には、青年期特有の痛みというようなものが、じつに切実に謳いあげられているように見える。彼が書いた文章も併せてみるならば、彼は「なぜ自分は描くのか」、もっと言うと「なぜ自分はこうも痛むのか、そして痛みを抱えながら生きていくのか」という問いには、真摯に向き合っていたように見える。それなのに・・・

池田は能弁な人だが、いわゆる天才型の人であり、感覚的に良い作品が作れる人だったのではないかとわたしは見る。先程の講演会に話を戻すと、彼は答えられないのではなく、思い出せないでいたのではないだろうか・・・

池田作品はどの時期を見るべきか

池田満寿夫の作品を年代を追って見ていく・・・するとジェームズ・アンソールのように、ある時期を境に張り詰めた緊張が弛緩していくのが分かる。わたしはそれを1979年、米国、イースト・ハンプトンにいた池田が、日本に帰国した時期に見てしまう。

ゆえに、池田満寿夫の版画作品に興味を持った方には60年代、70年代の20年間の作品を見られるよう、お勧めする。

それらの作品を一点一点見ていくならば、あるいは、冒頭で述べた平井君の疑問に池田がすでに答えていたのが分かるのではないだろうか。

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