世界で自分を表現するには クイーンに見るアートの指針

 世界で自分を表現していくのは大変である。世界はよく言われるように自分を中心に回っているわけではなく、それどころかいつの間にか自分を置き去りにして回っていくのだ。そうした世界を前にして、居酒屋のオジサンよろしく、「世の中甘くねえよ」とつぶやくか、セザンヌのように「世界は怖ろしい」と震撼して見せるか・・・アートの世界に関わっている人間にとって、世界―世間と自分―自己との間に横たわる溝は一度は頭を悩ます問題である。

 11月9日に封切られた「ボヘミアン・ラプソディ」という映画の中で、伝説的ロックバンド、クイーンのメンバーがそのことについて、いみじくも指針を与えてくれているように思う。

世間は見たことのないもの、聞いたことのないものを認めない

クイーンについて、デビューからしばらく、特にイギリスのマスコミは徹底的に腐した。曰く「退屈だ」「こんなバンドが成功したら、帽子でもなんでも食ってやる」など・・・

世界―世間は見たことのあるもの、聞いたことのあるもので成り立っていて、そこにあぐらをかいている存在なのだ。そんな者たちに腐されたからといって、へこんでしまう必要はさらさらない。

世間は前例を持ち出す

 のちに名盤とたたえられた「オペラ座の夜」から「ボヘミアン・ラプソディ」をシングルカットするにあたって、プロデューサーは、曲中の「マンマ・ミーア、ガリレオ、フィガロ・・・」の歌詞が意味不明であること、3分を超える曲(「ボヘミアン・ラプソディ」は6分)はどこのラジオ局もかけない、ゆえにセールス面での期待もできないことを理由に、シングルには別の曲を選ぶように主張する。だが、バンドは意味不明の歌詞の良さが必ず聴衆に伝わること、3分を超える曲でも、かけてくれるラジオ局は必ずあることを主張、結果、「ボヘミアン・ラプソディ」は全英チャート1位を記録したばかりか、伝説に残る名曲となったのである。

新しいこと、変わったことをするときに必ず世間は前例や慣習、常識を持ち出す。だが、それは結果次第でどうにでも覆る論拠なのだ。そんなものに屈してはいけない。

創作には不自由さ、軋轢が必要な時もある

1980年代に入って、リードボーカルであり、バンドの多くの曲を手掛けてきたフレディは「もっと自由にやりたい。思ったようにやりたい」とバンドを離れ、ミュンヘンでソロアルバムの制作に取り掛かる。だが・・・

思ったように制作が進まない。おかしい・・・自分のやり方を批判するものや、意見をするものはいないはずなのに・・・フレディは気づくのである。自分の行きたい方向にさまざまに力を加えて軌道修正を迫るもの、あるいは逆方向に引っ張るものがいてこそ、彼の創作はより高次のレベルに行けていたのだということを・・・

世間はある程度成功したもの、認められたものは無条件で賞賛するものだが、アートに携わる者はそんなものに迎合する必要はないのだ。自分の目で見て、良いものは良い、つまらないものはつまらないと率直に言おう。

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