見えない絵を見る方法

 展覧会で絵を見て回っていて「よく見えない」と感じた経験はないだろうか。ひとつには絵が物理的に汚れていてよく見えない、もうひとつには展覧会場があまりにも込みすぎていて、人の頭でよく見えないということがある。

 せっかく直に絵を見に行くのに、絵が良く見えないとは全くもってナンセンスなのだが、じつは結構よくあることなのだ。

 なんだかんだいっても、日本には良いものがやって来ることが多く、良いものを見る機会が多いわけであるから、見えない絵を何とか見る方法は、常々考えておかなければならないだろう。

デジタルで見ておく

 わたしは、中学生のときに買ったティツィアーノの画集を繰り返し見ていて、「どうしてひとは、このくすんだ色彩や肌合いを賞賛するのか」理解することができなかった。かなり後になって、メトロポリタン美術館へ行き、よく手入れ、保存されたティツィアーノ作品を見るに及んでようやく「そうか」と合点がいった。

 絵というものは実体を伴なったいわゆる「もの」である。基底材が板であれば、腐食したりやにが浸み出すことがあるであろうし、顔料は色味が変わってくる。上からニスを掛けるにせよ、そのニス自体が変色したり、ニスに上から汚れが溜まってくることもある。

 有名な話だが、マウリッツハイス美術館所蔵の「真珠の耳飾りの少女」は1881年にハーグで競売にかけられたわけだが、当時この絵は汚れがひどく、鑑定もままならず、わずか2ギルダーで競り落とされたという。

 また、范寛の「谿山行旅図」は台北故宮博物院の白眉であるが、わたしは何年か前に現地で実物に対面して唖然としたことがある。全体にセピアのフィルターがかけられているようで、図柄が全くわからないのだ・・・それもそのはず、范寛は宋代の人。つまり1000年も前の人であって、紙本にしろ絹本にしろ、経年による劣化は避けられないのだ。

 というわけで、西洋画ならバロック以前、東洋画なら明清以前のものは、あらかじめデジタルで細かい部分は見てから会場入りすることをお勧めする。

気韻、神韻を味わうべし

 会場では、自らの身体を同じ空間においてみないと味わうことのできない、言ってみれば、その作品が発するオーラを味わうことに全力を注ごう。東洋画ではよく「気韻」とか「神韻」とかいうことを問題にする。特に自然に題材をとった山水画において、なにが描かれているかよりも前に、その自然の発する「気」、そこにみなぎるエネルギーのようなものが表現されているかということの方を重視するのだ。

 そういったことを感じるために、展示会場へ足を運ぶのだと思えば、人の頭も気にならない。いや、むしろ、人の頭の隙間から見え隠れする絵の部分にこそ、オーラを感じ取ることができるのである。題材や技法に似通ったものが多い、北方ルネサンスや17世紀オランダ風俗画において、ひとつぬきんでた絵を感じ取れるのはこうした見方をしたときである。

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