リヒターの品格

ゲルハルト・リヒター

ゲルハルト・リヒターをご存知だろうか?

先日まで横浜美術館で開かれていたモネの展覧会では、関連作品として、様々な現代作家の作品が展示されていたが、文句なしに彼の作品が一番だった。

彼はケルン在住のドイツ人作家で、最近では大きな美術館を巡れば、必ずといって良いほど彼の作品を目にするようになった。一流というよりも、もはや巨人といっても良い人で、日本でも、あらゆる展覧会で出会うであろうから、我が独和珈琲絵画館でも彼の作品へのアプローチ方法をひとつ提示しておこうと思う。

ステュディーレンstudierenとレルネンlernen

あえて筆触を残して写真を描いた油画、カラーチャートを思わせるような抽象絵画、今回の展示作品にあったような、スキージで絵の具を何層にも塗り重ねたものなど、リヒターは次々とスタイルを変え、いろいろな作品をシリーズで制作しているのだが、そんな彼でも制作が煮詰まることがあるらしい。そんなとき、彼は学習と称して、モチーフの前にイーゼルを立て、ひたすら対称を写すことに没頭するのだという・・・

ここで彼は学習というのだが、じつはドイツ語には日本語の学習にあたる言葉が2種類ある。

ひとつはステュディーレンstudierenで、ドイツではギムナジウムを終了した者が、アカデミックな研究をすることを指す。一方、レルネンlernenはそうした研究を始めるまでの、ひたすらものを覚え、咀嚼し、身につけるといったことを指す。

ドイツの学生が「俺はステュディーレンしている」と言うときの、一種誇らしげな態度はここに由来する。「俺はもはや、己を空しくして先人の知見を吸収する段階にはいない。先人の知見を超えて自分なりのものの見方に到達せんがためのステュディーレンの段階にいるのだ」というわけだ。

さて、ドイツ人であるリヒターはどちらの意味で学習を使ったのか・・・

わたしはレルネンlernenのほうだと思う。

リヒター(裁判官)の品

20世紀初頭から現在までのヨーロッパ、アメリカ、そして日本では、自分のアートをプレゼンテーションするにあたっては「先人の知見を越えて、どう自分のものの見方に到達したか」を語ることが常道となっている。つまり、己を空しゅうするどころか、「俺が、俺が、俺が・・・」というわけである。

ベルリンに壁が築かれる少し前に、当時の西ドイツに渡ってきたリヒターはまさにこうした「俺が、俺が」式のギラギラしたモダン=コンテンポラリー・アートの渦中にいたと思われる。彼のレルネンlernenは、そうした渦の中で、逆に自分を見失わないための方便だったのではないだろうか・・・彼の作品にギラギラしたものがなく、それどころかある種の品を感じさせるのはそのあたりにあるのであろう。

余談だがリヒターRichterとはドイツ語で裁判官の意。いたずらに世論に流されることのない職務の性格がリヒターの作品にぴったり来る。

展覧会で彼の作品を目にすることがあったら、ぜひ彼の作品をほかの現代美術作家のものと比べてみて欲しい。そして彼の作品にある品を感じ取って欲しい。

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