言葉にしないこと

   気分はどうでもいいのか?

気分と聞くと、われわれ日本人はなにか移ろいやすいもの、不安定で流動的なもの、根拠のないものを思い浮かべる。そんなものに確かなよりどころを与えたり、ましてや行動の規範とすることなどもってのほかである・・・と、されているのだが、はたしてそうなのであろうか?少なくともわたしは、哲学などかじる前から気分については、自分の行動規範の中では、かなり大きな部分を置いているし、ある程度、齢を重ね、いろいろなものを読んだり、経験したり

して、ますますその思いは募っている。

そんな気分にまつわる最初のエピソード・・・

その年の夏、わたしは美術部の仲間と天城湯ヶ島にある昭和の森というところへキャンプに出かけた。手で組み上げた石のかまどでのバーベキュー、川の水を引き入れての水露天風呂、旧天城トンネルでの肝試し、UFOを呼ぶパフォーマンスや異性の話で当時16歳だか17歳だかの少年数名と25歳の美術部顧問の気分は異様に盛り上がった。

2泊3日だったか3泊4日だったかはあっという間に過ぎて山を下りることになった。修善寺までバスで出た後は三両編成の伊豆箱根鉄道で三島へ向かう。窓を開けると、平行して流れる狩野川を渡る風が函南平野の緑のにおいを運んできた。風に煽られながら私は幸福であった。

ところが幸福は長くは続かなかった。駅を出て、農協の脇を通り、〇〇高校に入る。部室に向かうところで担任のAに呼び止められた。当時、学校にはクーラーなどという気の利いたものはなく、Aのいた職員室から流れ出てきた生暖かい空気がもわっと顔をなでた。昼時だったと見えて、テレビの音が聞こえ、何人かの教員がランニングシャツ一枚で団扇を使っていた。タオルを首から掛け、鼻の頭に汗を浮かべながらAは「お帰り」と言った。私は猛烈に不愉快になった。

「ちょっと入れや」Aが私を職員室へ招き入れる。団扇を使いながらAが、

「どやった、キャンプは?」と私に尋ねた。

そのときすでに頂点に達していた不快感を私はどうしてよいか分からなかった。いろいろな言葉が身体の中を吹き荒れていた。かろうじて私は、

「別に。」とうつむいて言った。

不快感の頂点に達したのは今度はAの方だった。

「なんやて?」見る見る顔つきを険しくさせてAは、

「それがひとに対するものの言い方か。そん言い方する奴はここには置いておけん。いいから、出てけ。」と言い放った。

その後のことは良く覚えていない。私は部室に引っ込んでむくれていたのだが、16歳なりに計算高かったとみえ、ここで担任と揉めても、後で厳しい状況に置かれるだけだと踏み、しばらくして部室を出るとAに謝罪しに行ったたのだった。だが、私が本当に悪いと思うはずもなく、むしろこれをきっかけとしてことあるごとにAへの嫌悪を募らせていったのだった・・・

あれから30年が経ったが、この物語はいまだに開かれたままである。15年ほど経ったところで、「私が余りにも独りよがりで内気だった」と、いったんは総括してみたのだが、それではあのときの私を圧殺するだけで、物語を収束させることにはならないのだった。今、改めて振り返ると、私があの時感じていた不快感には正当性はあったと思う。そしてその不快感を「言葉にし、説明せよ」という要求があったとしたら、それは、過酷で無神経なものだろう。

後に私は、自閉症といわれる人たちについて知る機会を持った。自閉症が何かというのはなかなか難しい問題らしいのだが、とにかく彼らの情念は、私たちの規範とは大きくかけ離れたところで動いている。

彼らについては社会で一人前にやっていけるよう、計画が立てられるそうだ。そのためには、

  • 自分と他者との間に共通の言語を立てること。
  • その言語で自分のことを他者に伝えること。

などが求められる。しかし、自閉症のある種の人たちは、自分の置かれた状況を言語化すること、そのものに拒絶反応を示すのだという・・・

振り返って自分のことを考えてみる。他者と自分を隔てる固い殻が私の中にある。そのため、私が大事にしたいと感じることは誰にも分からない,私のことは絶対に誰にも分からない。それなのになぜ私は美術などやるのだろう?

言葉にすることすらためらわれることがある。少なからぬ人の中にこれはあると思う。そして、多くの人はこれを無視するか、ちょっと肩をすくめてやり過ごすであろう・・・でも私は周りとの軋轢を承知で「言葉にしない」ことを(あれからも)ことあるごとに選んできたような気がする。上の言葉と明らかに矛盾するが、美術をやる上で、私に何らかの資質があるとすれば、あるいはこのことかもしれない。

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